【2024.9.27 桂場元長官を「失敬、撤回する」の一言で許してしまっていいのか】
今日は「虎に翼」の最終回でした。
寅子さんが死んだ後の場面から始まり、度肝を抜かれましたね。そして、優未さんにとってのお母さん・寅子さんが描かれ、法律はお母さんのように皆を守ってくれるものだと説かれ、労働基準法20条(解雇予告手当)の規定が引用されます。
「虎に翼」の後半は、寅子さんと並ぶ主役級に、桂場長官を据えました。
今日の最終回でも、最後は寅子さんと桂場さんの問答となりました。場面は、寅子の横浜家裁所長就任を祝う同窓会が開かれた甘味&寿司の「笹竹」の129回の続きへと戻ります。
桂場「私は今でも、ご婦人が法律を学ぶことも、職にすることも反対だ。法を知れば知るほど、ご婦人たちはこの社会が不平等で、いびつでおかしいことに傷つき、苦しむ。そんな社会に異を唱えて、何か動いたとしても社会は動かないし、変わらん」
寅子「でも、今変わらなくても、その声がいつか何かを変えるかもしれない」
桂場「君はあれだけ、石を穿つことのできない雨垂れは嫌だと、腹を立ててきただろ」
寅子「未来の人たちのために、自ら雨垂れを選ぶことは、苦ではありません。むしろ至極光栄です」
桂場「それは君が佐田寅子だからだ。君のように血が流れていようとも、その地獄に喜ぶ物好きは、ほんのわずかだ」
よね「いや、ほんのわずかだろうが、確かにここにいる」
桂場「失敬。撤回する。君のようなご婦人が特別だった時代は、もう、終わったんだな」
桂場が団子を口に運ぶのを遮り、寅子は「はて?」「いつだって私のような女はごまんといますよ。ただ時代がそれを許さず、特別にしただけです」
寅子は桂場の額に付いていた桜吹雪の花びらを取り、満面の笑みで、仲間たちの席へと戻る。
女性の社会への進出は止められないことを認め、桂場さんに「失敬、撤回する」と述べさせたエンディング、このドラマを終わらせるための苦心のフィナーレだと思いますが、私には描き残された大切な問題があるように思われます。
「虎に翼」最終回を機に、桂場さんのモデルである石田和外裁判官の生涯を振りかえってみることにします。
石田さんは、保守王国福井の出身であり、一高、東大に進み、剣道の達人だったようですが、甘党でお団子好きだったことも、史実に沿っているようです。仕事中はいつもしかめっ面だったことも。
しかし、酒の入った席ではご機嫌で、皆を笑わせたりするお茶目な面もあり、一緒に働いた人たちの評判は悪くありません。ドラマの描いた桂場さんは、おおむねこのような史実に沿っていると評価できるでしょう。
功の一番目は、ドラマでも正しく描かれましたが、刑事裁判官として帝人事件の無罪判決を下し、検察を厳しく批判したことです。この裁判の被告人の一人が寅子さんのお父さんというのは、もちろん脚色です。この事件の判決で、東京地裁判事として、収賄罪で起訴された現職大臣らに対する無罪判決を主任判事として起案しました。検察の起訴した事件を「水中に月影を掬するが如し」とし、砂上楼閣のようなものだと、検察を厳しく批判し、起訴された全員に無罪を言い渡したのです。
昨日の袴田さんに対する無罪判決で、國井恒志裁判長は、検察の提示した自白、五点の衣類、ズボンの切れ端の三点がいずれも捏造であると指摘しました。とても勇気のいる司法判断だったと思いますが、戦前において、検察が作り上げた疑獄事件を砂上楼閣だと断じることは、同じように勇気が必要だったことと思います。石田氏は、司法の独立を信じ、検察からも独立した裁判官であろうとしたと言えます。
功の二番目は、このフェイスブックでも詳しく紹介しましたが、長官として四大公害事件の原告救済を強く訓示したことです。長官が、下級審に裁判内容を示唆する訓示をすることは、裁判官の独立を侵したきらいはありますが、公害被害救済こそが司法の使命であるとして、積極姿勢を示したものと評価することができるでしょう。
功の三番目は、虎に翼でも描かれましたが、戦後、石田氏は、司法省人事課長から、司法省の廃止に伴って1948年最高裁判所事務局(当時はこのように呼ばれていました)へ異動、最高裁事務総局の人事課長・人事局長・事務次長から東京地裁所長、最高裁事務総長、東京高裁長官、最高裁判事、最高裁長官へと昇り詰めます。
寅子さんを最初は司法省の事務局として家裁の設立の業務に、最高裁判所の発足時には裁判官に、そして、少年法改正の議論が行われる法制審の委員に任命したことも、正確に言えば、その時々の任命権者は異なるかもしれませんが、石田氏の差配があったと評価することは間違っていないでしょう。
細かいことですが、ドラマで餓死した花岡さんのモデルとなった山口良忠裁判官は、花岡さんと同じ佐賀出身の裁判官でした。山口さんの妻で画家だった矩子さんの絵を、桂場さんが動いて家庭裁判所で買い上げ、家庭裁判所に飾ったというドラマで描かれた話も、史実に沿うものとされています。そして、矩子さんは、ながく家裁の調停員を務められたということです。
石田氏は、女性の社会進出に反対するという根深い差別的な偏見を持ち続けながらも、それと反する判断もしていたのです。ですから、今日の最終回で、「失敬、撤回する」と述べたことも、あながち唐突ではないと評価できます。
功の四番目は、言うまでもなく、日本で初めて、尊属殺重罰規定の法令違憲判決を、自ら大法廷で言い渡したことです。石田長官が主導したと思われる多数意見の限界を、このポストでは詳しく書きましたが、彼の決断がなければ、この違憲判決が言い渡されることはなかったことは間違いがありません。
ここまでが彼の功績です。
石田氏の罪の第一はブルーパージを敢行して、裁判官の独立を傷つけ、最高裁=政府の動向を気にする「ヒラメ裁判官」を大量に生み出したことです。
石田裁判官が、最高裁長官に就任したのは1969年でした。まさに、東大の安田講堂の事件が起き、東大の入試が行われなかった年のことです。
石田は、70年5月の憲法記念日を前にした記者会見で、「極端な国家主義者、軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者ということになると、道義的には裁判官として好ましくない」と述べています。そして、彼は、「司法の独立」を守るためとして、青法協に対する苛烈な攻撃を始めます。これが、石田さんがみずからやったことであることは、ドラマでも正確に描かれました。
「ブルー・パージ」は、石田長官が、のちに長官にまでなる矢口洪一裁判官を副官として敢行した、青法協裁判官に対する差別=弾圧でした。1971年3月には、青法協に所属する宮本康昭判事補の再任を拒否します。4月には、裁判官を志望していた青法協の会員ら6名が任官拒否されます。これに抗議した司法修習生の阪口徳雄さんが、修習の終了式で発言を求めたことについて、最高裁は「式で混乱を招き、修習生の品位を辱めた」として彼を罷免してしまいます。その後の支援活動によって、阪口さんは、法曹資格を回復され、今は市民オンブズマンで大活躍されています。
このブルーパージは、憲法を擁護し、少数者の人権を保障する考え方を「共産主義」ときめつけ、これを見せしめとして司法から排除し、排除されなかった裁判官を萎縮させ、結局最高裁(その背後にいる自民党政府)の意向に迎合する裁判官を大量に生み出してしまいました。これが、石田氏の最高の罪です。
もう一つの罪は、1973年の4月4日の尊属殺違憲判決の直後である4月25日に同じ構成の裁判所で言い渡された全農林警職法事件の判決において、1960年代の裁判所において積み上げられてきた全逓中郵事件判決以後の、労働基本権の保障を重視し、公務員や三公社・五現業に働く労働者の争議権の行使を禁ずる法規を合憲限定解釈する判例の流れを覆し、労働基本権の冬の時代を創り出したことです。私は、この点こそが、ブルーパージとともに、もう一つの石田氏の長官としての罪であると考えています。このことについては、改めて、きちんと論じてみたいと思います。
最後に、最高裁の退任後のこととなりますが、石田氏は、1976年には英霊にこたえる会を結成し、会長につき、1978年、元号に法的根拠を持たせることを求める「元号法制化実現国民会議」の議長に就任しました。「日本会議」の母体の一つとなった組織です。今に続く、「変わらない日本」「変われない日本」の、基礎固めをしたこと、それが石田氏の最後の罪です。
石田さんは1979年に75歳で亡くなっています。
最後に、私たちが経験した司法の歴史を追体験させてくれた「虎に翼」は、NHK朝ドラの歴史を塗り替えたドラマとして、人々の記憶に残り続けることでしょう。ぜひ、吉田さんを脚本家に据えた次の朝ドラの企画を、NHKには切に望みたいです。そして、そのようなドラマが、政府の干渉なしにつくられるためには、今日の自民党総裁選挙で、総務大臣として電波停止発言を行った高市氏が総裁に選ばれることだけはないように、切に祈ります。