【2024.9.22 司法の独立と裁判官の市民的自由】
裁判官は孤高の存在でなければならないのか、裁判官に一般市民としての市民的自由を保障することは間違いなのか
寺西裁判官事件とは?
桂場さんの裁判官像は、裁判官とは孤高の存在でなければならないというものでした。独立を守るには、そうでなければならないと彼は信じていたのだと思います。ブルーパージも、裁判官が集団をつくって、意見交換をすることそのものを嫌ってなされたものでした。
裁判官の市民的な自由の範囲について最高裁判所大法廷の判断が示されたことがあります。1998年12月1日付の決定です。いわゆる寺西和史裁判官事件と呼ばれます。
私は、この裁判で、寺西裁判官の代理人を務めた一人です。そして、問題となっている盗聴法・通信傍受法に反対する市民集会の主催者の一人でした。
寺西裁判官の戒告処分に反対する声は広まり、弁護団は1200人、非公開審理がなされた仙台には部屋に入りきらないほどの弁護士が集まりました。「日独裁判官物語」の映画も、この処分に反対する活動の中から生まれたのでした。
決定は、仙台高裁の懲戒処分決定に対する同裁判官の抗告を棄却した決定でしたが、この決定には5名の最高裁裁判官の反対意見が付されていました。
多数意見は、その基本的な考え方として「裁判官は、外見上も中立・公正を害さないように自律、自制すべき」と述べ、寺西裁判官の盗聴法に反対する集会に出席し、パネルディスカッションに出席する予定だったが、所長から懲戒処分もあり得るとの警告を受けたので、出席は取りやめると発言したことが政治活動に当たるとして懲戒処分を相当としました。しかしながらこれは、憲法や国連決議、それに国際人権法が保障した裁判官の独立と表現の自由を真っ向から踏みにじった決定と言わなければなりません。
多数意見は、寺西裁判官の言動を批判し、「本件集会の目的である本件法案を廃案に追い込むための運動を支援しこれを推進する役割を果たしたものであることは、客観的に見て明らかである」と判断しています。
私は、当時盗聴法の制定に反対する市民活動に参加していました。寺西裁判官は、裁判所の令状審査が形骸化していることを指摘する意見を新聞投書で明らかにしていました。
裁判官には憲法を尊重し擁護する義務があり、基本的人権の保障を忠実に実行することが求められています。その裁判官が人権擁護の立場から自らの体験を踏まえ、令状裁判の実情を市民に説明し、立法問題について法律家としての見解を明らかにすることは当然の行為であり、市民にはそれを知る権利があると私たちは考えました。
裁判官の政治活動だと決めつけた多数意見
裁判官の政治活動を原則として認めていないアメリカにおいても、「裁判官は法、法制度及び司法制度に関し、演説、論文執筆、講義その他の活動に従事することができる」(アメリカ合衆国裁判官倫理規程7条、4条 『最高裁判所判例解説平成10年度下巻』 寺西裁判官事件に関する解説 976ページ)としています。
残念ながら、最高裁の多数意見はこのような寺西裁判官の行為を「組織的、計画的又は継続的な政治上の活動を能動的に行う行為」と決めつけ、懲戒処分の対象としたのでした。しかし、私は、寺西裁判官の行為は、明らかに法制度に関する許された意見表明の範囲内のものだったと考えています。
5人の最高裁判事が反対意見を述べた
他方で、この決定において特に評価すべきことは、15名の裁判官の内5名が、多数意見に対する反対意見を明らかにした点でした。寺西裁判官の決定時の会見写真がこぼれるような笑顔となったのも、多様な反対意見が出されたためでした。反対意見の理由は多岐にわたりますが、いずれも私たちが本件で主張してきたことを是認するものであり、裁判官と司法のあり方を考える上で極めて貴重なものです。
例えば、園部逸夫裁判官は「裁判官が在任中積極的に政治運動をしたことが認められる場合でも、そのことのみを理由として、当該裁判官を懲戒処分に付することはできないと考えるものである。」と判断を示しています。
裁判官の表現の自由について、河合伸一裁判官は「憲法の保障する思想・信条の自由及びこれに伴う表現の自由は、政治について自己の見解や意見を持ち、それを表明する自由を含むものであり、裁判官も、国民の一人として、基本的にこれらの自由を有することは多言するまでもない」。「現代の複雑かつ変化を続ける社会においてこれを適切に行うためには、単に法律や先例の文面を追うのみでは足りないのであって、裁判官は、裁判所の外の事象にも常に積極的な関心を絶やさず、広い視野をもってこれを理解し、高い識見を備える努力を続けなくてはならない」と述べています。
このような市民的裁判官像は、ヨーロッパだけでなく、最近はインド・韓国や台湾などアジア地域にも広がりつつある考え方です。
また、遠藤光男裁判官は「積極的な政治運動」について、「裁判所法は、新憲法の精神にかんがみ、裁判官が政党の党員または政治結社の社員となることを容認しているばかりでなく、裁判官が社会通念的にみて相当と認められる範囲内の通常の政治運動をすることを認めているものと理解することができ」るとの正当な判断を示し、寺西裁判官の言動により、「裁判官としての独立性及び前記外見上の中立性・公正性が著しく損なわれるに至ったと断定することはできない」と述べています。
ドイツでは、裁判官法39条において、「裁判官は、その職務の内外を問わず、政治的行動をする場合においても、裁判官としての独立性に対する信頼を損なうことのないように行動しなければならない」と定めています。ドイツでは、裁判官にも労働組合があり、反核運動や環境保護運動に取り組む裁判官も珍しくありません。裁判官が中心となって人権侵害の危険性のある法律案を修正させたこともあるといいます。このような裁判官像こそが、市民の司法に対する信頼の源泉となっているのです。
さらに、尾崎行信裁判官は本件の審理が寺西裁判官本人の陳述を聞かずに非公開で行われたことに関して、「裁判所は公開裁判、口頭主義、直接主義など近代司法の諸原則の下にこれを審理するべきであり、こうした審理、判断であってこそ社会一般も当事者本人も納得させることができ、裁判所への信頼も高められるのであり、そうでない限り、当審の手続は違法たるを免れない」と審理のあり方そのものを厳しく批判しています。
元原利文裁判官は、「裁判所法は、裁判官が『政治運動』をすることの是非については、裁判官個人の職業的倫理観や良識に委ね、これが『積極的』と評価し得る程度にまで及んだときに、初めて懲戒の対象となる行為としたものと理解できる。」が、寺西裁判官の言動は「反対運動を支援し、これを推進する役割を果たしたというのは、過大な評価である」と常識にかなった判断を示しています。
裁判官には公的な討論に加わる自由がある
この決定の意見の対立を見ると多数意見10名は裁判官や検察官・外交官など官僚社会の中だけの経験しかない裁判官たちの判断であるのに対し、反対意見が弁護士と学者出身者によって個性豊かに展開されていたと評価できるでしょう。
この点は、今の最高裁とはずい分違いますね。今日では、検察官出身の三浦判事と東大出身の研究者である宇賀判事が、説得力のある少数意見を出す一方で、弁護士出身の判事は精彩を欠いていますね。最高裁の弁護士出身判事の給源は、大企業の弁護を担当する大手のローファーム出身者に、ほぼ占められてしまいました。その中で、最高裁と東京電力との抜き差しならない癒着が生じていることは、このフェイスブックで何度も指摘してきたところです。
ヨーロッパ人権裁判所においては、裁判官に公的な討論に加わる自由があることが自明の前提とされています(ECHR, Harabin v. Slovakia, 62584/00, 29 June 2004.) 。そして、この自由が制限される場合とは、裁判官の公平性と司法の独立性に対する市民の信頼を傷つけるような場合です。(ECHR, Wille v. Liechtenstein, 28396/95, 28 October 1999, para. 64) 。
この点について、弁事ドットコムニュースの取材に答えて話した記事がありますので共有しておきますね。https://www.bengo4.com/c_23/n_8666/
独墺では裁判官が政治活動することまで認められている
ドイツやオーストリアでは裁判官が政党に所属し、政治活動を行うことまで認められています。
裁判官の表現の自由に対する制限が認められるかどうかは、それぞれのケースの具体的な状況、その裁判官が所属する裁判所、対象とされる表現の文脈、罰則の程度などを総合的に考慮しなければならないとされています(ECHR, Wille v. Liechtenstein, para. 63 and 64; ECHR, Baka v. Hungary (Chamber judgment), para. 99. ,ECHR, Pitkevich v. Russia (dec.), 47936/99, 8 February 2001. ECHR, Kudeshkina v. Russia, para. 95. para. 98.) 。
裁判官が公に裁判官の肩書きで発言するときには、抑制が求められますが、市民としての発言にはそのような抑制は求められません。
たとえば、その裁判官が当該事件を担当する可能性のある場合に、現に継続中の具体的事件に関して意見表明したような場合には懲戒されることは認められています(ECHR, E v Switzerland,Appl 10279/83,Dec.7/5.84,D.R.38p.124) 。しかし、そのような裁判官の公平性について市民の具体的な疑念を抱かせるような場合でなければ、広く裁判官の市民的な自由が保障されるべきであるとされています。
日本裁判官ネットワークはできたけれど
寺西事件の後、このような裁判官の市民的自由を拡大しようとした5人の少数意見に励まされるように、1999年9月に「日本裁判官ネットワーク」が結成されました。「開かれた司法」「司法機能の充実強化」のため、裁判官の自主性、自律性に基礎を置く、結びつきの緩やかな団体として結成され、意見を発表するなどの活動が続けられてきました。メンバー裁判官の意思を拘束する決議・決定を一切行わず、活動への参加、本ネットワークからの脱退を自由とし、政治的、労働組合的性格は持たないとしていました。12人のメンバーによって、「裁判官は訴えるー私たちの大疑問」という本まで出版されました。
私たち外部のものには、はかり知れない問題があるのかもしれませんが、残念ながら、今日ではネットワークのHPの更新はほとんどなく、その活動は活発とは言えません。
発信したツイッターの内容だけで法曹資格を奪われた岡口裁判官
他方で、岡口基一裁判官のツイッター発信問題はとても深刻な問題を提起しています。今や裁判官で実名でツイッターを使っているものは、後述する竹内裁判官を除いていなくなりました。
裁判官が、司法制度についての評論を、裁判官としての公的な立場を離れて、つぶやくことは、一人の市民として許される範囲を超えていないと私は思います。
私は、裁判官が、憲法と良心だけに従って独立して裁判を行えることと、自らの信ずることを自由に発言できることとは表裏の関係にあると考えます。裏返せば、自らの市民的自由が保障されている環境でなければ、裁判官が市民の人権を保障する判決を書くことも困難だと思うのです。しかし、岡口裁判官は、裁判官としての仕事の内容に問題があったわけでも、私的な非行があったわけでもないのに、ツイッター発信の内容を問題視され、分限裁判だけでなく、国会議員による弾劾裁判で罷免判決までが行われ、この判決には控訴なども認められないため、岡口裁判官は法曹資格まで奪われてしまいました(本年4月3日)。
この判決には、東京弁護士会は、「証拠裁判主義を否定して弾劾裁判制度の根幹を揺るがした上、適切な基準なく判断して裁判官の身分保障や表現の自由を危うくする論理によってなされた本件判決に対し抗議するものである。」との抗議声明を4月に発しています。このように、むしろ、裁判所の閉鎖的な傾向は、ますます強まりつつあるように私には見えます。
現職裁判官が地域手当の減額が憲法違反として裁判に訴えた
最近のニュースとしては、この7月に、転勤先の勤務地によって地域手当の支給額が変動し、裁判官の給与が減るのは憲法違反だとして、津地裁の竹内浩史判事(61)が国に減額分約240万円の支給を求めて名古屋地裁に提訴しています。
この制度は、地方と大都会の物価水準の違いに配慮したものですが、緩和措置があるため、いったん地方勤務とされた者もすぐに都会に戻った場合には減額がなされず、大都会の任地から外されて、地方の任地を転々としている者にだけ適用されているという差別的な制度なのです。
司法改革で鳴り物入りで導入された弁護士任官制度で弁護士から裁判官となった竹内裁判官に対して、露骨な差別が続いていることをこの訴訟は示しているようです。
竹内裁判官は、現職裁判官として、『裁判官の良心とは何か』という題の本を出版されました。本の紹介には次のようにあります。
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「裁判官の良心」の内実は「正直」「誠実」「勤勉」に尽きる。それを愚直に実行する裁判官がここにいる。
1)著者は、現役裁判官【津地方裁判所民事部の部総括裁判官(裁判長)】。
2)著者は現役裁判官の立場で、「裁判官の良心」を世に問うものである。
3)本書は、現役裁判官として、忖度抜きに、裁判所の現状について提示している。
4)著者は、「岡口基一弾劾裁判」において、弁護側証人として出廷した唯一の現役裁判官。
5)「裁判をしない裁判官」に訴える。
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竹内裁判官は、弁護士となってから任官した裁判官であり、裁判官ネットワークに所属する裁判官です。竹内裁判官の訴えは、弁護士時代の仲間の弁護士たちが支えていますが、彼の訴えに対して最高裁はどう応えるのでしょうか。
「虎に翼」を機に、多くの市民の方々に、司法の今日までの歴史と現在の課題について、ぜひ知っていただきたいと思います。そして、ご一緒に改革の方向を話し合っていくことができればと思います。さまざまな困難の中で、このドラマの放映を成功させたキャストとスタッフの皆さんに、重ね重ね心から感謝したいと思います。