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2024年11月6日

海渡弁護士による『虎に翼』解説~ 2024.9.16 ブルーパージ①

【2024.9.16 ブルーパージ①】

「虎に翼」の9月16日の放映回から、ついにブルーパージ=青法協の排除が始まりました。

航一さんの息子の朋一さんが、最高裁の事務総局から家庭裁判所に左遷され、最高裁の中で研究会をしていた仲間たちも、地方の支部へと左遷されていきました。

このことは、当時本当に裁判所の中で起きていたことです。

大事なポイントの第一は、ドラマでも適切に描かれていましたが、自民党から桂場=石田長官への直接的な圧力が加えられていたということです。この経過をこのように描くには、いまの放送界では相当な勇気が必要だったと思います。脚本家だけでなく、このドラマを作っているNHKのすべてスタッフの皆さんに心から感謝します。

この間の経過について、1971年の日弁連の「臨時総会・裁判官の再任拒否に関する決議」をもとに説明してみたいと思います。

https://www.nichibenren.or.jp/…/year/1971/1971_4.html

決議の本文は短いものですので全文を引用しておきます。

「最高裁判所は、本年度の裁判官の再任にあたり、10年の任期を終えた13期裁判官の宮本康昭判事補を再任名簿から除外し、また23期司法修習生で裁判官を志望するもののうち7名の不採用を決めた。右の宮本判事補と新任を拒否された7人のうち6人は青年法律家協会の会員であり、1名は任官拒否を許さぬ会の発起人であるということである。右事実と最近の司法をめぐる一連の経過を見るとき、また、本人及び国民の理由明示の強い要望にもかかわらず最高裁判所がこれを明らかにしないことから見て、この処分は裁判官の思想・信条・団体加入を理由に再任を拒否したものと考えざるを得ない。

このことは、裁判官の基本的人権をおかすばかりか、裁判官の身分保障ひいては司法権の独立をおびやかすことになるとともに、民主主義の基本にかかわる重大事である。

よって最高裁判所に対し直ちに再任ならびに新任をするよう強く要望するものである。

1971年(昭和46年)5月8日 臨時総会」

決議の提案理由はとても長いものですので、要点をご紹介します。

1) 宮本裁判官の再任拒否に関して、熊本県下の裁判官29名が、最高裁判所に対して要望書を提出していたこと、全国の裁判所からの要請は、総数は470名に達したこと、4月5日には最高裁判所は、23期司法修習生阪口徳雄君の修習終了式における言動をとらえて即日罷免処分としたこと、再任拒否、任官拒否という問題は突如として起ったものではなく伏線があったことなどが説明されています。

2) また、この問題は、一見最高裁判所による青法協排除という形、最高裁判所対青法協という形で議論されているが、問題の発端は、自由民主党による、いわゆる偏向判決批判に端を発していること、昭和44年3月22日に東京地裁が、東京都の公安条例違反デモ事件に対して無罪判決をしたこと、これに対して、西郷法務大臣が、あそこだけは手が出せなかったが、最早、何等かの歯止めが必要になったという発言を行ったこと、昭和44年の4月22日には、自民党が総務会を開き、党内に、裁判制度に関する調査特別委員会を設置するという意向を明らかにしたこと(これは石田長官の反対でとん挫します)、偏向判決批判という問題が次第に青法協会員に対する非難となり、昭和45年5月に自由民主党が司法制度調査会を発足させ、45年度の運動方針の中に青法協の問題を取り上げたことなど、自民党の方針こそが問題の根源であったことがわかります。

3) 他方で、裁判所の中では、いわゆる青法協問題というようなものは、それまで発生していなかったこと、青年法律家協会は、昭和29年に設立されており、32年には、裁判官部会というものが存在していたこと、32年から既に裁判官部会は、いろいろな読書会や研究会を行っていたが、矢口人事局長の新聞の談話の中で説明しているように、前から青法協の刊行物は、自由に手に入れることはできたこと、昭和35年頃には、その後最高裁入りをした岸盛一裁判官他数名の裁判官を青年法律家協会が招き、裁判の実務問題について、多く会員や裁判官が集って、座談会、懇談会をしていること、その席上、青年法律家協会に期待するんだという発言もなされていたこと、当時、青年法律家協会が、最高裁判所の8名の裁判官に対しまして、国民審査に関連して詳細なアンケートを行いが、そのアンケートについては、最高裁判所の裁判官がいずれも丁寧な回答を寄せ、それが新聞に大きく報道されたこと、青年法律家協会の研修所における同期の機関誌などに、研修所の所長であるとか、事務局長であるとか、或は教官、それから研修所外の裁判官や検察官まで文章を投稿し、そして、それらの雑誌は、教官に皆配られていたことなど、青法協の活動が裁判所によって公認されてきたことが、説明されています。

4) 青年法律家協会の問題が、政治的な形で取り上げられるようになると、これに呼応して、裁判所では青年法律家協会の会員裁判官に対する退会の勧告、所長、事務局長、或は上席の裁判官など、さまざまなルート、司法行政上のルートで退会の勧告がなされたこと、昭和45年4月8日、岸最高裁事務総長の談話、次いで5月2日の石田談話が行われ、この傾向はますます強化されたことなども報告されています。

このブルーパージは、石田長官と矢口人事局長らが、敢行したことは明らかですが、彼らの立場で考えるなら、自民党からの司法に対する明らかな圧力=介入を前に手を拱いていたら、司法の独立が侵されるという危機感から、自らの手で、青法協を解体してしまおうとしたものと評価できます。しかし、やはりこのやり方は間違っていたと思います。この弾圧によって、個々の裁判官が自らの良心だけをもとに裁判するという、「裁判官の独立」が、根底から覆され、最高裁そしてその背後に見え隠れする自民党の意向ばかりを忖度して判決する裁判官を産み出してしまったのです。

私が、司法修習生となり、水戸地裁に配属されたのは1979年のことでした。当時水戸地裁の刑事部に有満裁判官という大変優秀な裁判官がおられました。当時青法協の裁判官部会はすでに解散されていました。しかし、彼は、外部から来た私の目から見ても、はれ物に触るような扱いをされていました。「裁判官懇話会」の活動に関わっておられ、判例時報に掲載されていた「裁判官懇話会」の研究会の報告なども紹介してくださいました。日々の実務をどのようにしたら改善できるかを議論するもので、とても偏向したものとは思えませんでした。

青法協⇒裁判官懇話会で活動されていた有名な元裁判官に井戸謙一弁護士がおられます。彼をモデルとし、志賀原発差し止めの事件の経緯を軸とした小説「法服の王国」では、多くの有為な裁判官たちが、あるものは保身から転向し、正義を貫いたものは、地方の支部を転々として、砂を噛むような苦しい日々を送ったブルーパージの実態が生々しく描かれています。

ブルーパージは、その後矢口さんが長官の時に軌道修正され、あからさまな差別は是正されたといわれます。しかし、この激しい差別が、司法の現場に残した爪痕は甚大なものがあります。裁判官が、一市民として、社会的な活動に関わること、労働組合を結成して労働条件の改善に取り組むことなどはヨーロッパでは当然のことです。しかし、日本ではそのようなことは認められていません。自由闊達に議論できる場としての「裁判」そのものを壊してしまったのです。そのことの是非が鋭く問われたのが、盗聴法反対の市民集会に呼ばれて講演しようとした(寺西さんは、事前の地裁所長の警告を受けて、参加を取りやめ、会場に来たうえで、欠席を詫びる発言をされただけでした)「寺西裁判官」に対する戒告処分の適否が争われた分限処分事件でした。その話はまたの機会にいたしましょう。

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