【2024.10.10 第5週の帝人事件を振りかえる】
桂場=石田裁判官が主任判事として無罪判決を下した疑獄事件・帝人事件
帝人事件こそ、国策捜査と人質司法の原点
革手錠が自白強要のための拷問道具として用いられた
帝人事件とは
戦前編の「虎に翼」の一つのハイライトは帝人事件でした。20回から第5週にかけて、この事件をモデルにした「共亜事件」として描かれました。
この事件について石田和外裁判官が陪席裁判官として、事件が虚構であると断じて起訴された被告人全員に無罪判決を言い渡したのは歴史的事実です。
この事件はどのような事件だったのか、無罪判決の根拠はどのようなものだったのか、大臣まで被告人とされた事件が虚構としてつくりあげられたのはなぜなのか、石田裁判官の無罪判決は、当時どのように受け止められたのか、「日本政治裁判史録 昭和後編」所収の「帝人事件」(大島太郎専修大教授執筆)をもとに振り返ってみたいと思います。
なお、この事件の舞台となった台湾銀行に三淵嘉子さんの父が勤務していた事実はありますが、事件発生前に退職して別の勤務先に移っており、被告人のリストには含まれていません。しかし、すこし退職の時期が異なれば、この事件に巻き込まれた可能性はあります。
単なる株の売買だった
この事件は、帝国人造絹糸会社の株式売買をめぐる背任と贈収賄の事件です。売買の当事者は台湾銀行と保険会社団です。
帝国人造絹絲株式会社(現在の「帝人」です)はもともと鈴木商店というミニ財閥の系列会社でしが、1927年に始まった昭和恐慌で鈴木商店が倒産しました。そして、帝人の株式22万株は鈴木商店に対する債権者であった、台湾銀行が担保流れとして所有していました。台湾銀行は、日銀に対する債務返済のため日銀に差し入れられていました。
その後帝人の業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる買収の動きが活発になされました。
1933年5月台湾銀行と河合良成を仲介人とする保険会社の一団との間で10万株について売買契約が成立しました。
のちに、石田らの書いた判決では、この取引はまったく普通の売買契約であったと認定されています。
鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、文部大臣鳩山一郎や、「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻しました。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりしました。
番町会は関東大震災の前頃に河合良成、岩倉具光、後藤圀彦が、懇意の郷誠之助男爵の番町の自宅を訪れ食事を共にする会として設立していたものでした。
事件の火付け役はやっぱりメディアの報道
1934年1月17日、『時事新報』(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事「番町会問題をあばく」を掲載し、その中でこの帝人株の売買が贈収賄にあたるとして取り上げました。メディアの報道が、冤罪事件を産み出す構図は、今も昔も変わりません。
当時は斎藤実首相の時代ですが、司法官僚出身で当時枢密院副議長であった平沼騏一郎は五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣総理大臣の地位を狙っていました。
当時、後継首相の推薦権は元老が握っていました。そして、最後の元老・西園寺公望は、平沼の志向をファシズム的であるとし、推薦候補にすら上げませんでした。
平沼は、元老西園寺とこれを支持する立憲政友会主流派を深く恨み、立憲政友会内部の不満分子(政友会久原房之助派)を抱き込みながら帝人事件の捜査を検察に進めさせていきました。
16人の大臣、台湾銀行関係者、大蔵省幹部が起訴され齋藤内閣は総辞職に追い込まれる
その後、帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴されることになりました。これにより政府批判が高まり、1934年7月3日には齋藤内閣は総辞職に追い込まれます。この事件を立件した背景に平沼の野望があったこと前述しましたが、検察内部の主役は黒川越郎検事でした。黒田氏は右翼的な国家改造論者であり、検察の職務を通じて社会改造を行う意気に燃えていました。
保険会社団のまとめ役であった河合良成は、次のような黒田検事の取り調べの際の言葉を公判で証言しています。
1934年5月2日に黒田検事は、河合に対する取り調べの中で、「俺等が天下を革正しなくては何時迄経っても世の中は綺麗にはならぬのだ、腐って居らぬのは大学教授と俺等だけだ、大蔵省も腐って居る。官吏はもう頼りにならぬ、だから俺は早く検事総長になりたい。そうして早く理想を行いたい、気の毒だが君は大したことはなかろうが、是は社会革正の犠牲だ、仕方ない、之に依って社会を改良するのだ。」(昭和11年6月16日第131回公判 河合良成陳述 河合「帝人心境録」昭和13年刊218ページ)と述べたというのです。
まさにこの事件の立件は、検察ファッショと呼ばれた国策捜査であったことがわかります。このような国策捜査の伝統は、今も脈々と検察の中に流れているように思われます。近時の大きな冤罪事件といえる大川原化工機事件も、内閣調査室と連携した公安警察による経済安保法の制定を求める立法事実をでっち上げるための国策捜査であったと考えると、なぜこのような無理な捜査が追行されたのかが、ようやく理解できるのではないでしょうか。
誰が起訴されたのか
帝人事件で起訴された16人は次のとおりでした。
島田茂(台湾銀行頭取) – 背任・涜職容疑
永野護(山叶証券取締役・帝人取締役) – 背任・涜職容疑
高木復亨(帝人社長) – 背任・涜職容疑
柳田直吉(台湾銀行理事) – 背任・涜職容疑
越藤恒吉(台湾銀行整備課長) – 背任・涜職容疑
岡崎旭(帝人常務) – 背任・涜職容疑
長崎英造(旭石油社長) – 背任・涜職容疑
小林中(富国徴兵保険支配人) – 背任・涜職容疑
河合良成(日華生命専務・帝人監査役) – 背任容疑
黒田英雄(大蔵次官) – 涜職容疑
大久保偵次(大蔵省銀行局長) – 涜職容疑
大野龍太(大蔵省特別銀行課長) – 涜職容疑
相田岩夫(大蔵省銀行検査官・台湾銀行管理官) – 涜職容疑
志戸本次朗(大蔵省銀行検査官補) – 涜職容疑
中島久万吉(商工大臣) – 涜職容疑
三土忠造(鉄道大臣) – 偽証容疑
検察が大蔵次官に書かせた「嘆願書」が斎藤内閣の倒閣の武器とされた
1933年末以来、中島商工相と河合良成らの財界グループ「番町会」のメンバーは政民連携(立憲政友会民政党の連携)運動を推進していました。犬養毅の暗殺帝人事件は、この政民連携運動を挫折させ、斎藤内閣を倒壊させて平沼首班の内閣を成立させ、一気に日本のファッショ化を完成させることをねらった陰謀事件だったとされます。
このとき、陸軍は検察と意思を通じ、枢密院議長である平沼騏一郎を首相に推していました。平沼らは、右翼団体国本社を背景とし、すでに中島商務大臣、鳩山一郎らの閣僚を辞任に追い込んでいました。
「6月29日の閣議には、黒田大蔵次官が黒田検事に強制されて書かされた歎願書が提出された。ここには、、小山法相は大蔵省幹部の疑獄事件は、訊問と証拠蒐集の結果、「起訴事実について有罪となるべき不可動の確信を持つに至ったので、予審に付したこと」と取調の結果、「某前閣僚、某現閣僚が本事件に関係した事実」とを報告した(翌日付東京朝日新聞報道)。
この報告に使われた証拠物件は黒田英雄大蔵次官が取調に当った黒田越郎検事によって強制されて書いた嘆願書であり、岩村検事正から法相に渡された。それは自ら、帝人株四百株を貰ったことを認め、このうち一万円を高橋蔵相の子息に分けたので、自らの罪はとにかく、高橋是清翁に御迷惑が及んでは相済まぬという内容であったことが、後日、公判廷で明らかにされた。この文書はは総辞職を決意しつつあった斎藤内閣にとどめをさす決定的文書としての役割を果した。七月三日内閣は総辞職、四日、岡田啓介に大命降下」(大島太郎「帝人事件」60ページ)
まさに、検察のでっち上げた証拠が内閣を倒す道具にまで使われたのです。
今も昔も変わらぬ長期勾留・人質司法
事件の逮捕者の勾留期間は200日に及びました。いずれも、社会的な地位のある高官たちが長期に勾留されたのです。否認していれば保釈されない「人質司法」は、この当時から日本の司法の宿痾となっていたのです。いまこそ、人質司法を終わらせなければなりません。
しかし、この事件には幾人かの自白調書は無理やりの取り調べによってつくられましたが、商行為の株売買があるだけで、賄賂に使われたといわれる帝人株1300株は事件が起きる前の1933年(昭和8年)6月19日以来、富国徴兵保険会社の地下の大金庫の中に入ったままになっていました。犯罪の客観的な証拠は何もなかったのです。
審理途上で発生した2.26事件で斎藤元首相・高橋大蔵大臣らは殺害された
裁判は1935年(昭和10年)6月22日に東京刑事地方裁判所にて開廷されました(裁判長は藤井五一郎、左陪席は石田和外裁判官でした)。16人の被告はいずれも罪状を否認しました。自白してしまったものを含めて全員が裁判で否認することができたことも、画期的な無罪判決につながりました。
事件の審理途上で、1936年には2.26事件が発生しました。政治の腐敗を正すとして軍の青年将校たちが起こした叛乱でした。斎藤内閣を継いでいた岡田啓介は襲撃されますが、奇跡的に命拾いをします。
この事件を理由に辞職に追い込まれていた元総理大臣である斎藤実内大臣と高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍大将らが殺害されます。斎藤氏の暗殺は、このでっち上げられた疑獄事件を正当化の根拠として青年将校たちによって血祭りにあげられたといえます。
被告人全員に対する無罪判決
1937年12月16日には起訴された全員が第一審で無罪判決が下され、検察は控訴することもできず、判決は確定しました。
『虎に翼』では、主人公・猪爪寅子ら法律を学ぶ学生の地道な努力と機転、そして寅子の父の弁護を引き受けた穂高重親(モデルは穂積重遠)の冷静で的確な弁護により、家計簿の証拠などが明らかになり、無罪とされたと報じました。 実際の事件ではどうだったのでしょうか。
穂積重遠氏が事件の特別弁護人となったことは歴史的事実です。明治大学に女性の法律家を育成する場をつくった人が、帝人事件でも弁護人団全体をまとめ、無罪判決を勝ち取る要の役割を果たしたことを発掘したという意味でも、「虎に翼」の脚本は秀逸だったと思います。
また、拷問道具として使われた革手錠、公判では、検察側の捜査の違法が厳しく指摘されました。この事件では、戦前でも使用されることが稀であった革手錠が五人の被告人に使用されました。この革手錠は、名古屋刑務所事件で受刑者の命を奪ったとして刑事事件になったもので、日弁連、監獄人権センターの厳しい批判によって、2004年の監獄法改正で廃止されるに至りました。
大久保氏の論文においては、「歴史上使用例は皆無に近いと革手錠の使用が16被告人中5人に及んでいる」ことが指摘されています。今村弁護士は、当時ベテランの刑事弁護人でしたが、「今村弁護人が、彼の五十年に及ぶ弁護士生活中、革手錠の使用は難波大助一人だけだったという革手錠が、高木、長崎、永野、大久保らに対しては、連日取り調べられておりながら、聴取書が作成されていないときー数日間使用されていた。これは自殺の虞あるためというより、『身体で白状させる』ために使ったと、非難された。」「一方、大蔵省関係者に対しては、「既に勅裁を仰いで起訴せり」と、法的根拠としては「奏聞」というべきところを、敢えて、「勅裁」といって、特に、心理的な圧迫を行なった事実もある。」とされています(前掲書67ページ)。
テレビでは、寅子の父の直言と銀行理事が自白することで、高官らを保釈させ、罪をかぶるシーンがありますが、まさにこのような拷問的な取り調べによる人質司法が行われていたのです。
穂積重遠博士の自白証拠批判
また、ドラマでも正確に描かれましたが、穂積重遠博士が親友である大蔵省の銀行局長であった大久保氏の弁論で、検察を厳しく批判したのも歴史的な事実です。大島氏の論文では次のように指摘されています。
「第四は、こうした取調によって得られた「自白」が検事側の根拠であり、予審決定書の理由であった点である。
東大民事法の権威穂積重遠博士は三十六年来の親友大久保偵次被告の特別弁護人として、十二年八月二十日公判廷で弁論を展開し、この「自白」に基づく検事論告を、法律学よりもむしろ自然科学的な意味で、「非学問的である」と述べている。この弁論は同窓こぞって、悪事の出来ぬ男とみとめている大久保が保釈後、同窓会で、「意気地がないぞ」と詰問されたとき、「心にもない陳述をしたのは是々の事情であり、斯様々々の心境であった。これは其境遇に陥った人でなければ分らないことだ」と語ったこと、同窓生百一名の依頼状をうけたので、大久保と二人だけで対座し、嫌疑事実のなかったことの誓言をとったうえでのものであるだけに、説得力も迫力も感じられる証言であった。」。
「特に、検事論告は主張者に挙証の責任があるとする民事法における挙証責任の原則と逆に、被告側に挙証の責任を転嫁していると指摘し、英法の証拠法や林頼三郎(事件当初検事総長で、当時司法大佐)、更に平沼騏一郎の訓示(大正三年検事総長時代)などを引いて、検事論告を批判しているのはさすがである。」
判決のための合議の様子と12万字の判決文
判決の無罪の結論は裁判官三名の一致した意見でした。帝人事件の裁判長は藤井五一郎、右陪席が岡咲恕一、左陪席が石田和外、補充判事は岸盛一でした。この合議の中に後に最高裁長官となるものが二名も含まれていたことは驚きです。藤井裁判長は回想して、次のように述べています。
「担当検事の間に和がなかった、十分打合せているように見えなかった。また、予審判事の間にも、互いに横の連絡がとれていなかった。」
「謀議にしても、某日、どこそこの待合で会合したとなっており、待合の帳面もあるが、本人の日記ではその日は広島へ行って結婚の媒酌をやっているという具合で、十分調べがついていない。経済問題たとえば人絹の将来性などについても、組織的研究は何一つ出来ていない。株屋の外交員から話をきいたりしていた。台湾銀行の背任の問題でも、これは石田君が気がついて調べてみたんですが、台湾銀行の株の消長は帝人株の動きに左右されているんですね。そして、その株を処分したことで損をかけたどころか銀行に貢献しているのです。まア、そんな風にいろいろ根本的なミスがあったんです。」
「そして、結審のころ、湯河原へ静養にでかけて散歩していたとき、『私が、君達はどう思う、ときいたら、全員が言下にダメ、という意見で、それで結論が出てしまったわけです。私が書いたのは、全員無罪という主文だけです。水中に月影を掬するが如しという、あれは石田君が書いたのです』と、伝えている」(前掲書68ページ)。
そして、昭和11年(1936)12月16日、公判は結審となり、全員に無罪が言い渡された。判決は、12万字におよぶ長文で、法廷で言い渡すのに、6時間15分を要したと言います。
結論は要旨次のようなものでした。「検察側が提示する証拠は、自白を含めどれも信憑性に乏しく、本件において検察側が主張するままに事件の背景を組み立てんとしたことは、『あたかも水中に月影を掬いあげようとするかのごとし』。すなわち、本件判決は証拠不十分によるものではなく、犯罪の事実そのものが存在しないと認めるものである」判決文には、「証拠不十分ニアラズ、犯罪ノ事実ナキナリ」との一文も存在します。
現代に活かされるべき帝人事件判決
「虎に翼」というNHK朝ドラで、帝人事件という社会を揺るがされた大冤罪事件とこれが無罪とされた経緯が多くの市民に共有されたことは大きな意味がありました。袴田さんに対する死刑判決が誤っていたという、戦後最大の冤罪事件が確定した今、現代におけるこの帝人事件の持つ意味を考えてみます。
〇袴田事件における自白は拷問的な取り調べの結果、つくられたものでした。帝人事件においても、自白強要の捜査が継続され、そのために拘禁状態や拘束具を使われたことなど、今も続いている人権侵害の捜査でした。捜査における人権侵害を根絶するため、国選弁護の拡充や取り調べの一部の可視化などが行われてきました。しかし、警察で23日も取り調べが継続される「代用監獄制度」は、国際機関からの度重なる勧告にもかかわらず、廃止されていません。逮捕の直後に保釈される起訴前保釈制度も実現していません。欧米や韓国でも実現している、取り調べへの弁護人の立会いも実現していません。
〇また、事件を否認すれば、逃亡の恐れなどないのに拘束が継続される人質司法も、ずっと続いてきたことがわかります。
〇独立した司法が機能していれば、冤罪を見破り、無罪判決を言い渡すことができることも、示されています。袴田事件においても、一審の判決を書いた熊本典道裁判官は無罪意見でした。この意見が多数となっていれば、袴田さんの苦難の58年はなかったのです。検察や政治に振り回されない独立した司法が、何にもまして重要です。
〇捜査機関が、政治目的で「国策捜査」を行うとき、人権侵害の危険性は極致に達することがわかります。国策捜査を食い止めるには、被告人がスクラムを組むこと、批判的メディアが真実を報ずること、国の意図を見抜く市民の叡智とその支援のための活動が大切であることがわかります。