【2024.9.28 石田和外最高裁長官のもうひとつの罪】
桂場長官=石田和外最高裁長官の最大の罪は、全農林警職法事件最高裁判決・判例変更によって1960年代の労働基本権尊重の最高裁判例の流れを逆転させたことである
日本は、労働基本権・ストライキ権がきちんと行使できない社会になっている。それは、いくつかの理由があるが、1960年代の最高裁の基本権尊重を重視する判決を石田長官が1973年に変更したこと。1975年のスト権ストが敗北したこと。1987年に国鉄が分割民営化され、スト権を行使する労働者がたくさん首を切られ、見せしめとされたこと。そして、1989年に総評がなくなり、連合が生まれ、ストライキ権を行使しないことを基本方針としたこと。そのために、日本ではストライキが悪いことのように思われるようになった。しかし、労働者がストライキをすることが自然な欧米では、この物価高の中でも、ストライキの力で、労働者の賃金は上がっている。だから、今こそ日本でも労働者の連帯思想を復権しなければならない。
毎朝放映される「虎に翼」の寅ちゃんの大活躍に笑い、涙した半年間が終わりました。このドラマの意義については、いろんなところに書きました。桂場裁判官の功罪についても、このフェイスブックにまとめてみました。最終回の放映で、桂場さんが「反省のできる人」としてネットで人気沸騰と聞き、「はて?」と首をかしげて、このポストをします。
私としては、最後に、ドラマでは描かれなかった、桂場長官=石田和外最高裁長官のブルーパージと並ぶ、もう一つの大きな罪について書いてみたいと思います。
それは、全農林警職法事件最高裁判決による、1960年代の労働基本権尊重の最高裁判例の流れを逆転させたことです。例によって、少し長いですが、戦後の労働基本権の歴史の転回点を、前後の歴史を含めて、書いてみました。
なぜ、日本では労働者の賃金が上がらず、韓国にも追い抜かれたのか?
皆さん、日本は物価が上がっても、労働者の賃金はわずかしか上がらない国になったと思いませんか。海外に出かけると、日本円の価値の下落に呆然としますね。
OECD加盟国における2023年の世界の平均年収(平均賃金)ランキングは、1位がルクセンブルク(85,526ドル)、2位がアイスランド(81,378ドル)、3位がスイス(79,204ドル)、4位がアメリカ(77,226ドル)、5位がベルギー(69,874ドル)となっています。
2023年のOECD加盟国の平均年収は55,420ドルです。
2023年の日本の平均年収(平均賃金)ランキングは世界24位(データが公開されている33か国の下から9番目です)、42,118ドルです。お隣の韓国は、47715ドル、スペインやリトアニア、イタリアなどにも抜かれています。
円安が進んだ今年2024年のデータでは、おそらく、さらにランク落ちしていると推測されます。
なぜ、こんなことになったのか、ここに桂場=石田長官の罪が関わっていると私は思うのです。まず、次に添付のグラフを見てください。
なぜ、日本はストライキができない国となってしまったのか?
1974年は、戦後史の中でストライキの件数が最高に達した年でした。1974年には一万件近い労働争議が発生していました。現在ではこれが、100分の1にまで下落しています。
2023年の労働争議の状況をみると、「争議行為を伴う争議」の件数は75件、行為参加人員は8,414人です。1974年には争議行為を伴う争議が、9581件あったことと比較すると、争議行為を伴う争議は100分の一以下に激減していることがわかります。
空前の物価上昇の中で、アメリカやヨーロッパでは労働組合は、大きなストライキを構えて、賃上げを獲得してきました。しかし、日本では、政府にお願いして、大企業に賃金を上げるように指示しましたが、欧米の賃上げには遠く及びませんでした。
ここで疑問です。なぜ、日本は、労働組合がストライキできない国となってしまったのでしょうか?
労働基本権否認の流れの出発点は全農林警職法事件最高裁判決である
「虎に翼」のドラマの中では、残念ながら描かれませんでしたが、1973年4月の尊属殺人重罰規定の違憲判決が言い渡されたのと同じ月に、もう一つ大法廷判決が石田長官によって言い渡されています。全農林警職法事件最高裁判決です。この判決は、1960年代に積み重ねられた労働基本権尊重の最高裁判例全逓中郵事件判決以降の流れを逆転させた判決です。日本がストライキができない国になる流れが始まったのは、この時からで、ここに一つの秘密があると考えています。
労働基本権の問題は、戦後司法における、最重要の論点の一つでした。そして、この判例こそが、日本を労働組合がストライキをできない環境にしてしまう出発点だったと思うのです。
労働基本権が日本国憲法で保障されたことの意義
まず、労働基本権が日本国憲法で保障された経緯とその意義から振り返る必要があるでしょう。
市民法においては、契約は対等な契約当事者の合意によって成立します。しかし、雇用契約における使用者と労働者は対等ではありません。弱い立場の労働者は、使用者から示された雇用契約について交渉の自由を持たないのです。だからこそ労働組合の団結権と争議権は認められたのだと説明されます。しかし、実際の歴史はそんな単純なものではありません。労働組合に対する度重なる弾圧とこれに対抗する血みどろの闘いによって、労働基本権が勝ち取られてきたのが実際の歴史であることはイギリスにおける共謀罪の労働組合に対する適用の歴史などを見ても明らかです。
労働基本権なき日本の戦前における労働運動
日本においては、第二次世界大戦前においても労働基準を定めた「工場法」が制定されましたが、労働組合について直接規律する法律は戦前には結局制定されませんでした。
労働組合の行う争議行為は当初は、通常の刑事法規すなわち治安警察法や行政執行法(予防拘禁制度が定められていた)などによって規制されていました。
第二次山縣有朋内閣は、1900年に治安警察法を制定しました。同法の主たる規制対象は、労働運動の規制でした。この規制は1945年11月21日廃止されるまで存続しました。戦前においては、労働組合の団体行動は治安弾圧の対象とされていたのです。
1925年に制定された治安維持法は、まず最初に弾圧されたのは共産党でした。1928年の3.15事件の対象は共産党員でした。1929年4.16事件では、共産党の周辺組織とりわけ共産党系の労働組合・全協と文化運動・コップに弾圧が拡大されました。
1937年人民戦線事件では労農派の教授たちと合法左翼労働組合全評が狙われました。日中戦争が始まった直後に当たる1937年12月15日、コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応し、日本で人民戦線の結成を企てたとして労農派系の大学教授・学者グループが一斉検挙されました。加藤勘十・黒田寿男・山川均・荒畑寒村・鈴木茂三郎・岡田宗司・向坂逸郎・大森義太郎らが検挙されました。1938年2月1日の第二次検挙では、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・宇野弘蔵・美濃部亮吉・佐々木更三・江田三郎らが検挙されました。
この事件から、日本共産党とその周辺に限定されていた治安維持法の適用範囲が、非共産党のマルキスト・社会主義者全体に及ぶこととなりました。加藤勘十が委員長を務めていた日本無産党とその系列労組である全評は、結社禁止処分となり解散させられました。共産党と無縁の労働組合も治安維持法の適用対象とされるに至ったのです。都内のバス運転手らを組織していた「東京都市交労働組合」は、全評に属していましたが、この時の弾圧で、解散に追い込まれました。
全協と全評が解散を余儀なくされる中、最後に残っていた労働組合である総同盟(松岡駒吉会長)は、近衛首相の下で進められた新体制運動、大政翼賛会が結成される政治状況の下で、1940年7月「自発的解消決議」を発して解散し、1940年11月には「大日本産業報国会」が結成されました。
戦争体制の下で、全協と全評、総同盟は時期と方法は異なるものの、すべての労働組合運動が根絶やしにされたのでした。
労働組合の法認と刑事・民事免責は戦後改革の柱だった
日本の敗戦がもたらした戦後改革の柱は、秘密警察=特高警察の廃止と労働組合運動の合法化・労働三権の尊重でした。
日本は1945年8月14日(15日ではありません)、日本は連合国のポツダム宣言を受諾し、15年戦争に敗北しました。その後、日本を実効支配したGHQが同年10月に発した5大改革指令のトップは秘密警察の解体であり、次が労働組合の結成の奨励でした。すなわち、1945年10月11日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは当時の首相幣原喜重郎に対し、五大改革指令を命じました。
秘密警察の廃止/労働組合の結成奨励/婦人解放(家父長制の廃止)/学校教育の自由化/経済の民主化(財閥の解体、農地の解放)などが、この指令に含まれました。特高の廃止が一番、労働組合の結成が二番だったのです。このことは忘れてはならない歴史です。
1945年12月21日には、憲法制定に先立ち、早くも(旧)労働組合法が制定されました(施行は1946年3月1日)。この労働組合法によって、労働者の団結権、団体交渉権及び争議権が認められるに至り、官公吏についても、警察・消防・監獄の職員を除き、その他の官公吏はすべて同法の適用を受けることとなったのです。このことは、多くの日本国民は忘れてしまっていると思いますが、忘れてはならない歴史の一コマです。そして、使用者の団結権侵害には刑罰が科されるという組合差別を刑罰で取り締まる画期的な仕組みとなっていたのです。
日本国憲法よりも前に労働組合法が制定されたこと、公務員にも労働三権が保障されていたこと、団結権侵害が犯罪化されていたことはいずれも特筆に値することです。
戦後労働運動をけん引した産別会議
戦後直後の日本の労働運動をけん引したのは産別会議でした。産別会議は、日本共産党の影響力の強い左派の労働組合を集めて結成されたナショナルセンターでした。結成されたのは1946年8月21日で、電気・国鉄・鉄鋼業・機器製造業・石炭鉱業など21単産、当時の組織労働者の40%以上に当たる163万人の組合員で結成されました。右派の日本労働組合総同盟(総同盟、組合員数85万人)と競合し、二・一ゼネスト、労働立法の制定、産業復興、最低賃金制の確立、労働協約の締結など、戦後初期の日本の労働運動において重要な役割を果たしました。
ここで、特筆すべきことは、左派の産別会議、右派の総同盟の双方が、「政治思想的には異なるものの、いずれも単一の産業別労働組合への結集という指向性においては共通していた」(平地一郎「日本の産業別労働組合研究」(上)佐賀大学経済論集48巻6号 7ページ )とされていることです。
現行労働組合法も産業別労働組合を想定している
戦後日本の労働運動の大きな桎梏となったのは、企業内労働組合主義と官公労に対するスト権の否定でした。しかし、現行の労組法は産業別労働組合を認めていました。労働組合法18条は、明らかに産業別の労働組合の活動を念頭にその活動を保障するために労働協約の地域的一般的拘束力について定めています。
1947年初頭には、米ソの冷戦の激化に伴って、GHQの対日政策が急転回しました。逆コースの始まりです。1947年2月1日には産別会議が主導してゼネストを計画しましたが、GHQの指示により、中止に追い込まれました。1948年2月には、産別民主化同盟が結成されるに至ります。1948年8月7日には現業公務員及び非現業公務員の双方が参加するゼネストが予定されました。1948年7月22日にGHQから公務員の労働権を制限する制度を求めたマッカーサー書簡が芦田均首相に発せられ、それを受けて7月31日に芦田内閣は政令201号を公布、即日施行しました。
この政令201号の趣旨に沿って制定されたのが、いわゆる三公社五現業における労働関係を規定する公共企業体等労働関係法(1949年施行、略称は公労法)でした。同法は、労働条件に関する苦情処理,紛争調整の手続や,在籍専従者などを規定していますが、労働組合法・労働関係調整法などと異なり,争議行為の禁止,団体交渉権・団結権の制限が規定されました。このように、労働組合法自体は、法的に産業別労働組合の存立を否定したわけではなかったものの、企業内労働組合が定着し、産業別労働組合化への展望が徐々に失われていきました。
ILO提訴と1966全逓東京中郵判決
総評と公労協はILO第87号条約について条約批准闘争を展開しました。同条約に違反する日本の国内法を挙げILOへ提訴しました。
1965年1月10日には、ILOの結社の自由に関する実情調停委員会がドライヤー調査団を派遣し、この調査団の報告書が提出されたのは日本が批准した後の8月31日でした。1966年の全逓東京中郵事件の最高裁判決はこのような情勢の下で示されたものでした。この判決は、公共企業体等労働関係法第17条を憲法違反とまでは述べていませんが、労働基本権を尊重する姿勢を示し、まず、労働基本権の合憲的制限の条件として、
(1)合理性の認められる必要最小限のものであること、
(2)職務または業務の停廃による国民生活への重大な障害を避けるために必要やむをえない場合であること、
(3)刑事制裁を科すことは必要やむをえない場合に限られるべきこと、
(4)以上の制限にはこれに見合う代償措置が必要であることを示しました。
そのうえで、刑事制裁が科されるのは、
(1)政治目的の場合、
(2)暴力を伴う場合、
(3)国民生活に重大な障害をもたらす場合(たとえば長期スト)に限られるとしたのでした。
石田長官の勧めた司法反動の柱はブルーパージと1973全農林警職法判決
1969年の長沼ナイキ事件に端を発した「平賀書簡事件」では、青法協会員の裁判官であった福島重雄に札幌地裁の所長であった平賀健太が「アドバイス」を送ったことが問題視されました。1970年には岸盛一最高裁判所事務総長が、裁判の公正性を疑われかねないので、政治的色彩を帯びた団体に裁判官は加盟すべきではないとの談話を発表しました。全国的にブルーパージの嵐が吹き荒れることになります。
労働基本権尊重の流れについても、1970年代に開始された、裁判所内における司法反動の進行によって1973年の公務員に関する全農林警職法事件(1973年4月25日)で覆され、「国民全体の共同利益」のためという抽象的な人権の制約原理を示し、公務員の地位の特殊性と職務の公共性を理由に、労働基本権の制約を承認する従来の立場に復してしまったのです。
この判決で多数意見を構成したのは、裁判官石田和外、村上朝一、藤林益三、岡原昌男、下田武三、岸盛一、天野武一、岩田誠らでした。尊属殺人の重罰規定そのものは違憲でないとした人々と重なる部分が多いですね。
これに対して、裁判官田中二郎、大隅健一郎、関根小郷、小川信雄、坂本吉勝らは、全逓中郵事件以降の判例の流れの尊重を主張し、その判例変更に明確に反対し、色川幸太郎は公務員に対する労働基本権の制限そのものに反対の意見を表明しました。こちらも、尊属殺人の重罰規定そのものが違憲であると判断した人々とほぼ重なります。
その後、全逓中郵判決についても同じ日の別の職場に関する全逓名古屋中郵事件判決(1977年5月4日)において、公務員は団体交渉権、争議権を憲法上当然に保障されているものではないとの判断が示されるに至りました。
最後の闘いスト権ストの敗北から国鉄分割民営化へ
石田コートに端を発する公務員の労働基本権否定の流れは、公務労働者による「ストライキによってスト権を奪い返す」という動きを産み出します。司法による官公労のストライキ権の奪還がむつかしくなる状況の中で、官公労はスト権ストを構え、状況を政治的に転換しようとしたのです。
ロッキード疑獄を受けて1974年12月に内閣総理大臣に就任した三木武夫は「対話と協調」を掲げ、労働側とも対話する姿勢を示しました。1975年の春闘において、国鉄総裁の藤井松太郎は、「組合側の良識ある行動に期待」する形で前年度闘争の処分を「当分留保する」と発表しました。労働側は、このときにスト権ストを構えれば、政府の譲歩を得られるとの誤った見通しを抱きました。
1975年11-12月には9日間のストライキが闘われましたが、政府は交渉に応じず、ストライキ権を奪還することはできませんでした。時は三木内閣であり、長谷川労働大臣も融和的で、何らかの譲歩案が示されると思われましたが、自民党は、椎名総裁=中曽根幹事長ラインで固められており、具体的な譲歩は全く示されず、ストライキは敗北したのです。
さらに、自民党は追い打ちをかけるように、国鉄をたきつけ、国労・動労などに対して、202億円の損害賠償訴訟を提起させ、国労・動労を経済的に追い詰める戦術をとるようになりました。イギリスにおける20世紀初頭の組合攻撃をほうふつとさせるあからさまな組合弾圧の動きでした。
このスト権ストへの厳しい対応と引き続く国労・動労に対する損害賠償訴訟が、国鉄分割民営化への導火線となりました。
1985年ころから、メディアは国鉄労使国賊論、ヤミカラキャンペーンを繰り広げ、これを導火線として分割民営化の動きが吹き荒れ始めました。私が弁護士となり、宮里邦雄弁護士の薫陶を受け、国労弁護団の末席に加えられたのは、このような情勢のもとでした。
中曽根内閣の下で提案された国鉄改革法案の23条は組合差別の不当労働行為を容認するものでした。
国鉄を民間会社化するのですから、その労働基本権は当然回復されることになります。そのため、国労などによってストライキが行われることを未然に防止するために、総評官公労、とりわけ国労の解体が目指されることとなったのです。
1986年の総選挙で自民党は大勝し、中曽根政権のもとで国鉄改革法案は成立し、1987年2月には国鉄改革法案23条によって北海道と九州で約7000人を超える国労などの組合員がJRに採用されませんでした。この不採用は国家的な不当労働行為と呼べるものでした。民間企業となったJRの国労以外の労働組合は、労使共同宣言を締結し、ストライキ権を行使しないことを経営側に誓約しました。
この一連の過程の中で、民間企業においても、ストライキ権が行使することも、違法視され、ストライキ権の行使そのものが例外的な、異常なものとみなされる国民意識を産み出したといえます。
連合はストライキをしない企業内労働組合のあつまりである
労働戦線の統一の動きは1989年連合の結成によって完成しました。連合結成は総評労働運動の解体と裏表の関係に立っていました。連合とは、企業内労働組合の集合であり、ストライキをしない労働組合の結合体でした。連合の結成以降、労働組合の組織率は低下し、またストライキ権の行使、労働争議は激減したのです。
いまこそ、労働者連帯思想の復権を
このような、労働組合運動の後退、争議権行使の困難化は、日本の企業経営者と政府が、裁判所の助けを借りて、工作を継続してきた結果だといえます。その結果がどのような低賃金社会、少子化の企業社会を産み出しているでしょうか。
正規労働が削減され、非正規労働が激増し、派遣労働も増加しています。派遣労働の導入の時に、派遣こそが企業に束縛されない「自由な働き方」であると賞揚されました。このように、労働の問題を、個人的な選択の問題に解消させる傾向が強まっています。新自由主義思想の下では、不安定な雇用状態は、自らが選び取ったものとして「自己責任」の問題とされます。仲間たちのために、また、仲間とともに闘うことでその職場、ひいてはその産業全体の労働条件を改善していくという労働者倫理=労働者連帯思想が、日本ではきわめて希薄なものとなってしまいました。
一人ひとりの労働者は競争の中で、他の労働者を蹴落としてでも、生き残るしかありません。賃金が一方的に切り下げられ、何年働いても、昇給しないような職場が一般化しています。年休が取れない、時間外労働が無制限に続く、そのような労働条件の中で、過労死のような悲劇が起きています。メンタルを病む者が増えています。そうした中で、不服を言う労働者は干され、退職に追い込まれるのです。パワハラ、セクハラがあっても訴え出ることはとても難しいのです。
世界的な物価の高騰の中で、労働運動が復権している国がたくさんあります。目覚ましい賃上げが勝ち取られた例もあります。日本の賃金水準は韓国にも抜かれてしまいました。
私は、そのような社会を創り出すきっかけとなったのが、1973年石田和外長官の下で言い渡された全農林警職法事件最高裁判決だったと思います。
寅ちゃんは、「誰も否定しない」といい「失敬、撤回する」のひとことで、桂場さんを許したのでしょうか。
私は、石田長官の2つの罪、この判決とブルーパージの罪を、決して水に流すわけにはいかないと思っています。長くなりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございました。